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高知県土佐清水市・海の駅ありずり内|ジョン万次郎資料館

海の駅あしずり 外観“国際人第一号”の誕生と歴史
足摺岬を洗ったとうとうたる黒潮の流れは、日本列島を北東に進み、ついには北アメリカ北西岸沖に達する・・・・・土佐の中ノ浜村に生まれた万次郎の数奇な一生はまさにこの雄大な黒潮そのものといえるでしょう。
14歳の時、出漁中に漂流し、アメリカの捕鯨船に救助され、やがて船長にその才能を認められた万次郎は、船長の故郷マサチューセッツ州フェアヘブンで英語、数学、測量、航海術、造船技術などを学びます。やがて日本に帰国し、それらの貴重な知識や技術、体験は幕末から明治にかけての日本の夜明けに、日米の友好をはじめとする国際交流の礎に多大の影響を与えています。
『国際交流の館・ジョン万次郎資料館』はそんなジョン万次郎の生涯を再現した施設です。

ジョン万次郎資料館内
開館時間:8時30分〜18時
入場料:大人…200円 高校生以下無料
(くろしお社中開催中は大人も無料)

定休日:水曜日(くろしお社中開催中は定休日なし)
所在地:土佐清水市養老303
駐車場:約120台(乗用車)
【交通】
・とさくろしお鉄道中村駅より車(バス)で約45分
・土佐清水市街地から車(バス)で約5分

アクセスMAP

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海の駅『あしずり』内
住所: 高知県土佐清水市養老吹越303  TEL:0880-82-3155


土佐・龍馬であい博 土佐清水・ジョン万次郎くろしお社中
『海の駅あしずり』では、地域特性のある大河ドラマ関連の資料などの展示をする「土佐清水・ジョン万次郎くろしお社中」が開催されます。
入場は有料。期間は平成22年1月16日〜平成23年1月10日まで。イベントの詳細は上記バナーをクリックして公式ホームページをご覧下さい。

ジョン万次郎の生涯
西 暦 年 齢 事 柄
1827 0 土佐国中ノ浜村才前の漁師、父悦介・母汐の次男として生まれる。
9歳の時父死亡、10歳で中浜浦老役、今津太平宅に下働きに出る。
1841 14 正月5日足摺岬でのアジ、サバ、漁中に漂流(10日間)九死に一生を得て、南海の孤島、鳥島に漂着、わずかな溜水と海草、海鳥を食して143日間を生きながらえる。
その後、米国捕鯨船ジョン・ハウランド号に救助され、ホイットフィールド船長の保護を受ける。
1842 15 漂流仲間とホノルルで別れ、万次郎一人捕鯨船員として太平洋へ乗り出す。
1843 16 捕鯨航海を終え、船長の故郷マサチューセッツ州、フェアヘブンに帰港。
その後、オックスフォード校(初級)、バートレット専門学校(上級)で、英語、数学、測量、航海、操船等の教育を受ける。
1846 19 米国一流の捕鯨船フランクリン号の航海士として乗船し、大西洋から喜望峰をまわり、インド洋、更に太平洋での捕鯨航海へと、文字通り「7つの海」をかけ巡る。ホノルルにも立寄り、仲間と再会する。
1848年7月一等航海士副船長となる。
1850 23 アドベンチャー号を購入し、伝蔵(筆之丞)、五右衛門の3人で母国へ帰る便船、サラボイド号の人となる。
1851 24 沖縄本島(琉球国摩文仁間切小渡浜)に上陸。
1852 25 那覇-翁長-薩摩藩鹿児島-長崎奉行所(白州での尋問全18回に及ぶ)。
その後、土佐藩主山内豊信の命により、吉田東洋から70日の取り調べを受ける。実に11年10ヶ月ぶりに母汐と再会がかなう(わずか5日間)。土佐藩の士分に取り立てられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。この時、後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けている。
1853 26 老中首席阿部伊勢守からの召喚状が土佐藩の万次郎に届き、江川太郎左衛門の手附を拝命、ご普請役格としての「幕府直参」となる。この頃、生れ故郷の地名を苗字として「中浜万次郎」を名のる。
1857 30 アメリカ合衆国航海学書の翻訳完成。つづいて英会話書(英米対話捷径)を編集する。
軍艦教授所教授を拝任。捕鯨術教授のため箱館へ出発(箱館奉行所与力次席)。
1860 33 批准使節団の一員として、「咸臨丸」に乗り込む。艦長勝海舟、教授方通弁主務中浜万次郎他総勢96名、後の慶応義塾大学長福沢諭吉(当時26歳)も同行し、共にウェブスターの英語辞書を購入したエピソードは有名である。
1861 34 外国奉行水野筑後守忠徳に同行し、小笠原諸島(父島、母島)の調査と図面造りをする。
1862 35 妻鉄死亡。
1864 37 薩摩藩の開成所教授となり、航海、造船、測量、英語を教授する。
1866 39 土佐藩主山内容堂の命により、後藤象二郎等と藩校「開成館」の設立に寄与する。
また二人は上海に渡り、土佐藩船を購入する。
1869 42 明治政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の徴士(二等教授)となり、明治3年には、中博士(教授)となって、最高学府の教壇に立つ。
1870 43 普仏戦争視察の一員として、ヨーロッパ出張。
1871 44 ロンドンから帰って間もなく、軽い脳溢血を起して倒れ、程なく全快するが、以後政治の前面には出ず、波乱万丈の半生に比べて誠に静かな晩年を送る。その間、中浜にも数度帰省し、母(明治12年に86歳で死亡)を見舞った。
1898 71 東京京橋弓町長男中浜東一郎医博(岡山医学校教授)宅で71歳の生涯を終える。
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