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婦人参政権碑

婦人参政権碑

高知市上町1丁目
第四小学校前

◆会社の近くに、こんな碑があります。◆

婦人参政権が認められたのは、1945年10月、閣議決定されました。

しかし、それよりも60年以上前に、ここ高知市上町町議会で日本ではじめて女性の選挙権・被選挙権が認められたのです。

れを記念して記念碑が建てられました。(1990年)

 
 

治13年6月16日、高知の上町町会は女性の選挙権・被選挙権を認める町会規則を県令(今の県知事)に提出しました。その案文は次のようなものです。

「第十七条 本会ノ議員ハ全員五拾名ト定メ町内一般人民ヨリ公選スベシ

但シ議員ト為ルヲ得ベキ者ハ左ノ条款ヲ除ク(中略)__ニ十年未満ノ者」

つまり、20歳以上の男女に選挙権・被選挙権を認める内容のものです。(現在は、被選挙権は25歳以上の男女)


の案文に対しては、直ちに県令(県知事)が、「二十年未満ノ者」を「二十年未満ノ者及ヒ婦女」という内容に訂正してきました。婦人の参政権を認めなかったのですね。
しかし、上町町会の3ヶ月にわたる抗議行動に県令もなんとか折れて、明治13年(1880年)9月20日、日本で始めての女性参政権を認める法令が成立しました。明治維新からわずか13年後のことでした。
その後、隣の小高坂村でも同様の条項を実現しました。
この当時、世界でも女性参政権を認めていたのはアメリカのワイオミング州議会だけでしたので、高知県の上町・小高坂村の動きは世界で2番目に女性参政権を実現したものでした。

●記念碑近隣●

由は土佐の山間より発したり』との言葉で有名な、土佐立志社の植木枝盛は『高知新聞』に、「男女同権ハ海南ノ一隅ヨリ始ル」との論文を発表し、婦人参政権を絶賛してました。(明治14年)

れからわずか4年後の明治17年、日本政府は、それまで各区町村が、独自に規則を設けてよいとする「区町村会法」を改訂し、規則制定権を区町村会から取り上げ、婦人を町村会議員選挙から排除しました。その後、日本で婦人参政権が復活するまで、60年以上の歳月が流れることとなりました。

しも、この上町・小高坂村の婦人参政権が排除されなければ、歴史の動きはどうなっていたでしょうか。それでも、太平洋戦争は起こっていたでしょうか?

もそも、高知で、最初に女性の参政を叫んだのは、楠瀬喜多という一人の婦人でした。彼女は夫、楠瀬実の死去後の、明治11年、区議会議員の選挙で投票できず、「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないというのはおかしい。本来義務と権利は両立するのがものの道理、選挙権がないのなら納税しない」と県に対して講義した。しかし、県には受け入れてもらえず、喜多は内務省に訴えた。これは、婦人参政権運動の始めての実力行使となり、東京日日新聞などにも報道された。
多は、後に『民権ばあさん』といわれ、自由民権運動の演説会でも、時おり弁士となって、堂々と自分の意見を述べました。さすがは、高知県の"はちきん"(高知の方言で、勝気な女性のこと)ですね。(^ ^)
21世紀は女性の時代と言われてスタートした、新世紀。土佐の女性こそ、その最先端を突き進んで頂きたいものです。
楠瀬喜多について

 




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