牧野 富太郎の生涯 | ||
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西 暦 | 年 齢 | 事 柄 |
文久2(1862) | 0歳 | 酒造と雑貨を営む裕福な商家、岸屋の一人息子として生まれる。幼名「成太郎」 |
慶応元(1865) | 3歳 | 父、佐平死去。 |
慶応3(1867) | 5歳 | 母、久寿死去。 |
慶応4(1868) | 6歳 | 祖父、小左衛門死去。この頃、富太郎と改名。祖母、浪子に育てられる。 |
明治5(1872) | 10歳 | 土居謙護の寺子屋で習字を学ぶ。 |
明治6(1873) | 11歳 | 伊藤徳裕(蘭林)の塾で漢学、名教館で西洋の諸学科を学んだほか、英語学校で英語を学ぶ。 後の妻、小澤壽衛生まれる。 |
明治7(1874) | 12歳 | 佐川小学校に入学。 |
明治9(1876) | 14歳 | この頃、小学校の授業に飽き足らず自主退学。 採集した植物を「重訂本草綱目啓蒙」などで調べ植物の名前を覚える。 |
明治10(1877) | 15歳 | 佐川小学校の臨時教員となる。昆虫にも興味を持ち採集する。 |
明治12(1879) | 17歳 | 佐川小学校の臨時教員を辞め高知市へ出る。弘田正郎の五松学舎に入塾する。 |
明治13(1880) | 18歳 | 植物の観察図や観察記録をつくる。高知中学校教諭の永沼小一郎を知り欧米の植物学の影響を受ける。 |
明治14(1881) | 19歳 | 顕微鏡や書籍を購入するため上京。第二回内国勧業博覧会見物のほか、文部省博物局に田中芳男、 小野職愨らを訪ね、日光などで植物採集し帰郷する。高知県西南部で植物採集を行う。 |
明治17(1884) | 22歳 | 二度目の上京。東京大学理学部植物学教室を訪ね、教授の矢田部良吉と助教授の松村任三を知り、 教室への出入りが許される。 |
明治18(1885) | 23歳 | 高知県西南部ほかで植物採集を行う。 |
明治19(1886) | 24歳 | 三度目の上京。東京近郊で植物採集を行う。この頃、石版印刷技術を習得する。 |
明治20(1887) | 25歳 | 「植物学雑誌」の創刊に携わる。祖母、浪子死去。 |
明治21(1888) | 26歳 | 四度目の上京。この頃、壽衛と東京根岸に所帯を持つ。「日本植物志図篇」刊行を始める。 |
明治22(1889) | 27歳 | 「植物学雑誌」第3巻第23号に大久保三郎と日本で初めて新種ヤマトグサに学名を付ける。 佐川理学会発足。 横倉山でコオロギラン発見。マキシモヴィッチに標本を送る。 |
明治23(1890) | 28歳 | 現在の東京都江戸川区でムジナモを発見する。植物学教室への出入りを禁止され、 マキシモヴィッチを頼りロシア行きを決意する。 |
明治24(1891) | 29歳 | マキシモヴィッチの死去によりロシア行きを断念する。実家整理のため帰郷。高知県下で植物採集を行う。 |
明治26(1893) | 31歳 | 帝国大学理科大学嘱託、臨時雇用を経て助手となる。 京都府、愛知県、岐阜県、滋賀県、高知県へ植物採集のため出張命令が出る。 |
明治27(1894) | 32歳 | 京都府、愛知県、滋賀県、静岡県へ植物採集のため出張命令が出る。 |
明治29(1896) | 34歳 | 台湾へ植物採集のため出張命令が出る。 |
明治32(1899) | 37歳 | 「新撰日本植物図説」刊行を始める。 |
明治33(1900) | 38歳 | 農事試験場嘱託となる。「大日本植物志」刊行を始める。 |
明治34(1901) | 39歳 | 「日本禾本莎草植物図譜」「日本羊歯植物図譜」刊行を始める。 |
明治39(1906) | 44歳 | 滋賀県、岡山県、鳥取県、福岡県の各地で植物採集会を指導する。 |
明治40(1907) | 45歳 | 東京帝室博物館嘱託となる。「増訂草木図説」刊行を始める。 |
明治42(1909) | 47歳 | 横浜植物会が創立される。会の指導に当たる。 |
明治43(1910) | 48歳 | 東京帝国大学理科大学助手の休職を命じられ、同大学の植物調査嘱託となる。 |
明治44(1911) | 49歳 | 千葉県立園芸専門学校嘱託となる。東京植物同好会が創立され、会長となる。 |
明治45(1912) | 50歳 | 東京帝国大学理科大学講師となる。 |
大正2(1913) | 51歳 | 植物学者の白井光太郎、斎田功太郎、木村彦右衛門らとともに、来日したドイツの植物学者、 エングラーと日光で植物採集を行う。岡山県、広島県、高知県で植物採集会を指導する。 |
大正3(1914) | 52歳 | 千葉県立園芸専門学校に辞表を提出する。神奈川県、岡山県、鹿児島県で植物採集会を指導する。 |
大正5(1916) | 54歳 | 素封家の池長孟から援助の申し出がある。「植物研究雑誌」を創刊。 |
大正7(1918) | 56歳 | 兵庫県神戸市に池長植物研究所が開設される。開所式に壽衛とともに出席する。 |
大正11(1922) | 60歳 | 成蹊高等女学校長の中村春二より支援を受ける。 |
大正13(1924) | 62歳 | 東京帝室博物館より解嘱される。伊勢神宮の植物調査を行う。 |
大正15(1926) | 64歳 | 壽衛の尽力により、現在の東京都練馬区東大泉に居を構える。 |
大正15(1926) | 64歳 | 東京府北豊島郡大泉村(現在の練馬区東大泉)に居を構える。 |
昭和2(1927) | 65歳 | 理学博士の学位を受ける。仙台で新種のササを発見する。 |
昭和3(1928) | 66歳 | 壽衛死去。新種のササに「スエコザサ」と命名する。 |
昭和9(1934) | 72歳 | 高知県中~東部で植物採集を行う。「牧野植物学全集」刊行を始める。 |
昭和10(1935) | 73歳 | 岡山県、大阪府、岐阜県、福井県、富山県で植物採集会を指導する。 |
昭和11(1936) | 74歳 | 高知帰郷。高知市近郊で植物採集を行う。 |
昭和13(1938) | 76歳 | 長崎県、鹿児島県、熊本県、福岡県、兵庫県、愛媛県、広島県、大阪府、高知県で植物採集を行う。 |
昭和14(1939) | 77歳 | 東京帝国大学へ辞表を提出、講師を辞任する。 |
昭和15(1940) | 78歳 | 広島県、愛媛県、大分県で植物採集会を指導する。 大分県犬ヶ嶽で採集中に転落事故に遭い別府で静養する。「牧野日本植物図鑑」刊行。 |
昭和16(1941) | 79歳 | 現在の中国東北部へサクラ調査に赴く。 池長植物研究所で保管されていた標本が返還され、華道家の安達潮花より標品館の寄付を受ける。 |
昭和20(1945) | 83歳 | 空爆により標品館の一部が被弾し、山梨県巨摩郡穂坂村に疎開する。 |
昭和21(1946) | 84歳 | 個人雑誌「牧野植物混混録」刊行を始める。 |
昭和23(1948) | 86歳 | 皇居に参内、昭和天皇に植物学をご進講。 |
昭和24(1949) | 87歳 | 大腸カタルで危篤となるも奇跡的に回復する。 |
昭和25(1950) | 88歳 | 日本学士院会員となる。 |
昭和26(1951) | 89歳 | 文部省に牧野博士標本保存委員会設置され、標本整理が始まる。第1回文化功労者となる。 |
昭和27(1952) | 90歳 | 佐川の生家跡に「誕生の地」の記念碑が建つ。 |
昭和28(1953) | 91歳 | 東京都名誉都民となる。 |
昭和29(1954) | 92歳 | 風邪をこじらせ肺炎となり病臥する。 |
昭和30(1955) | 93歳 | 東京植物同好会が牧野植物同好会として再開する。 |
昭和31(1956) | 94歳 | 高知県高知市五台山に牧野植物園設立決定。佐川町名誉町民となる。病状が悪化し重体となる。 昭和天皇よりお見舞いのアイスクリームが届く。 |
昭和32(1957) | 94歳9ヶ月 | 1月18日 永眠。東京都谷中の天王寺墓地に埋葬。没後、文化勲章を授与される。 |
昭和33(1958) | – | 高知県立牧野植物園開園。 東京都立大学理学部牧野標本館開館。 練馬区牧野記念庭園開園。 |
平成19(2007) | – | 没後50年 |
平成24(2012) | – | 生誕150年 |
令和4(2022) | – | 生誕160年 |
観光情報
「植物学の父」 牧野 富太郎
Information
住所 | ■牧野植物園 高知県高知市五台山4200 |
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TEL | 088-882-2601 |
FAX | 088-882-8635 |
営業時間 | 9:00~17:00 |
休館日 | 年末年始 12/27~1/1 |
入館料 | 一般730円 (高校生以下無料) 団体630円 (20名以上) 年間入園券2,930円(1年間有効のフリーパス) |
お問合せ先 | 牧野植物園 |
Website | https://www.makino.or.jp/dr_makino/ |
数多くの植物の名付け親
94年の生涯において収集した標本は約40万枚、蔵書は約45,000冊を数えます。
新種や新品種など約1,500種類以上の植物を命名し、日本植物分類学の基盤を築いた一人として知られています。
新種や新品種など約1,500種類以上の植物を命名し、日本植物分類学の基盤を築いた一人として知られています。
多くの蔵書を刊行
現在でも研究者や愛好家の必携の書である「牧野日本植物図鑑」を刊行。
全国からの要望に応じて各地を巡り、植物を知ることの大切さを一般に広く伝え、植物知識の普及にも尽力しました。
1957年には文化勲章を受章しました。
全国からの要望に応じて各地を巡り、植物を知ることの大切さを一般に広く伝え、植物知識の普及にも尽力しました。
1957年には文化勲章を受章しました。