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「植物学の父」 牧野 富太郎

植物と共に過ごした植物学者

牧野氏は高知県高岡郡佐川町に生まれ、幼いころから植物に興味を持ち、独学で植物の知識を身につけていきました。
その後2度目の上京の時に東京大学理学部植物教室への出入りを許され、研究に打ち込むようになります。
そして自ら創刊に携わった「植物学雑誌」に新種ヤマトグサを発表し、日本人として国内で初めて新種に学名をつけました。

Information

住所■牧野植物園
高知県高知市五台山4200
TEL088-882-2601
FAX088-882-8635
営業時間9:00~17:00
休館日年末年始 12/27~1/1
入館料一般730円 (高校生以下無料)
団体630円 (20名以上)
年間入園券2,930円(1年間有効のフリーパス)
お問合せ先牧野植物園
Websitehttps://www.makino.or.jp/dr_makino/

数多くの植物の名付け親

94年の生涯において収集した標本は約40万枚、蔵書は約45,000冊を数えます。
新種や新品種など約1,500種類以上の植物を命名し、日本植物分類学の基盤を築いた一人として知られています。

多くの蔵書を刊行

現在でも研究者や愛好家の必携の書である「牧野日本植物図鑑」を刊行。
全国からの要望に応じて各地を巡り、植物を知ることの大切さを一般に広く伝え、植物知識の普及にも尽力しました。
1957年には文化勲章を受章しました。
牧野 富太郎の生涯
西 暦年 齢事 柄
文久2(1862)0歳酒造と雑貨を営む裕福な商家、岸屋の一人息子として生まれる。幼名「成太郎」
慶応元(1865)3歳父、佐平死去。
慶応3(1867)5歳母、久寿死去。
慶応4(1868)6歳祖父、小左衛門死去。この頃、富太郎と改名。祖母、浪子に育てられる。
明治5(1872)10歳土居謙護の寺子屋で習字を学ぶ。
明治6(1873)11歳伊藤徳裕(蘭林)の塾で漢学、名教館で西洋の諸学科を学んだほか、英語学校で英語を学ぶ。
後の妻、小澤壽衛生まれる。
明治7(1874)12歳佐川小学校に入学。
明治9(1876)14歳この頃、小学校の授業に飽き足らず自主退学。
採集した植物を「重訂本草綱目啓蒙」などで調べ植物の名前を覚える。
明治10(1877)15歳佐川小学校の臨時教員となる。昆虫にも興味を持ち採集する。
明治12(1879)17歳佐川小学校の臨時教員を辞め高知市へ出る。弘田正郎の五松学舎に入塾する。
明治13(1880)18歳植物の観察図や観察記録をつくる。高知中学校教諭の永沼小一郎を知り欧米の植物学の影響を受ける。
明治14(1881)19歳顕微鏡や書籍を購入するため上京。第二回内国勧業博覧会見物のほか、文部省博物局に田中芳男、
小野職愨らを訪ね、日光などで植物採集し帰郷する。高知県西南部で植物採集を行う。
明治17(1884)22歳二度目の上京。東京大学理学部植物学教室を訪ね、教授の矢田部良吉と助教授の松村任三を知り、
教室への出入りが許される。
明治18(1885)23歳高知県西南部ほかで植物採集を行う。
明治19(1886)24歳三度目の上京。東京近郊で植物採集を行う。この頃、石版印刷技術を習得する。
明治20(1887)25歳「植物学雑誌」の創刊に携わる。祖母、浪子死去。
明治21(1888)26歳四度目の上京。この頃、壽衛と東京根岸に所帯を持つ。「日本植物志図篇」刊行を始める。
明治22(1889)27歳「植物学雑誌」第3巻第23号に大久保三郎と日本で初めて新種ヤマトグサに学名を付ける。
佐川理学会発足。 横倉山でコオロギラン発見。マキシモヴィッチに標本を送る。
明治23(1890)28歳現在の東京都江戸川区でムジナモを発見する。植物学教室への出入りを禁止され、
マキシモヴィッチを頼りロシア行きを決意する。
明治24(1891)29歳マキシモヴィッチの死去によりロシア行きを断念する。実家整理のため帰郷。高知県下で植物採集を行う。
明治26(1893)31歳帝国大学理科大学嘱託、臨時雇用を経て助手となる。
京都府、愛知県、岐阜県、滋賀県、高知県へ植物採集のため出張命令が出る。
明治27(1894)32歳京都府、愛知県、滋賀県、静岡県へ植物採集のため出張命令が出る。
明治29(1896)34歳台湾へ植物採集のため出張命令が出る。
明治32(1899)37歳「新撰日本植物図説」刊行を始める。
明治33(1900)38歳農事試験場嘱託となる。「大日本植物志」刊行を始める。
明治34(1901)39歳「日本禾本莎草植物図譜」「日本羊歯植物図譜」刊行を始める。
明治39(1906)44歳滋賀県、岡山県、鳥取県、福岡県の各地で植物採集会を指導する。
明治40(1907)45歳東京帝室博物館嘱託となる。「増訂草木図説」刊行を始める。
明治42(1909)47歳横浜植物会が創立される。会の指導に当たる。
明治43(1910)48歳東京帝国大学理科大学助手の休職を命じられ、同大学の植物調査嘱託となる。
明治44(1911)49歳千葉県立園芸専門学校嘱託となる。東京植物同好会が創立され、会長となる。
明治45(1912)50歳東京帝国大学理科大学講師となる。
大正2(1913)51歳植物学者の白井光太郎、斎田功太郎、木村彦右衛門らとともに、来日したドイツの植物学者、
エングラーと日光で植物採集を行う。岡山県、広島県、高知県で植物採集会を指導する。
大正3(1914)52歳千葉県立園芸専門学校に辞表を提出する。神奈川県、岡山県、鹿児島県で植物採集会を指導する。
大正5(1916)54歳素封家の池長孟から援助の申し出がある。「植物研究雑誌」を創刊。
大正7(1918)56歳兵庫県神戸市に池長植物研究所が開設される。開所式に壽衛とともに出席する。
大正11(1922)60歳成蹊高等女学校長の中村春二より支援を受ける。
大正13(1924)62歳東京帝室博物館より解嘱される。伊勢神宮の植物調査を行う。
大正15(1926)64歳壽衛の尽力により、現在の東京都練馬区東大泉に居を構える。
大正15(1926)64歳東京府北豊島郡大泉村(現在の練馬区東大泉)に居を構える。
昭和2(1927)65歳理学博士の学位を受ける。仙台で新種のササを発見する。
昭和3(1928)66歳壽衛死去。新種のササに「スエコザサ」と命名する。
昭和9(1934)72歳高知県中~東部で植物採集を行う。「牧野植物学全集」刊行を始める。
昭和10(1935)73歳岡山県、大阪府、岐阜県、福井県、富山県で植物採集会を指導する。
昭和11(1936)74歳高知帰郷。高知市近郊で植物採集を行う。
昭和13(1938)76歳長崎県、鹿児島県、熊本県、福岡県、兵庫県、愛媛県、広島県、大阪府、高知県で植物採集を行う。
昭和14(1939)77歳東京帝国大学へ辞表を提出、講師を辞任する。
昭和15(1940)78歳広島県、愛媛県、大分県で植物採集会を指導する。
大分県犬ヶ嶽で採集中に転落事故に遭い別府で静養する。「牧野日本植物図鑑」刊行。
昭和16(1941)79歳現在の中国東北部へサクラ調査に赴く。
池長植物研究所で保管されていた標本が返還され、華道家の安達潮花より標品館の寄付を受ける。
昭和20(1945)83歳空爆により標品館の一部が被弾し、山梨県巨摩郡穂坂村に疎開する。
昭和21(1946)84歳個人雑誌「牧野植物混混録」刊行を始める。
昭和23(1948)86歳皇居に参内、昭和天皇に植物学をご進講。
昭和24(1949)87歳大腸カタルで危篤となるも奇跡的に回復する。
昭和25(1950)88歳日本学士院会員となる。
昭和26(1951)89歳文部省に牧野博士標本保存委員会設置され、標本整理が始まる。第1回文化功労者となる。
昭和27(1952)90歳佐川の生家跡に「誕生の地」の記念碑が建つ。
昭和28(1953)91歳東京都名誉都民となる。
昭和29(1954)92歳風邪をこじらせ肺炎となり病臥する。
昭和30(1955)93歳東京植物同好会が牧野植物同好会として再開する。
昭和31(1956)94歳高知県高知市五台山に牧野植物園設立決定。佐川町名誉町民となる。病状が悪化し重体となる。
昭和天皇よりお見舞いのアイスクリームが届く。
昭和32(1957)94歳9ヶ月1月18日 永眠。東京都谷中の天王寺墓地に埋葬。没後、文化勲章を授与される。
昭和33(1958)高知県立牧野植物園開園。
東京都立大学理学部牧野標本館開館。
練馬区牧野記念庭園開園。
平成19(2007)没後50年
平成24(2012)生誕150年
令和4(2022)生誕160年